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横浜スタジアム座席表です

このサイトは横浜スタジアムでコンサートや野球のチケットを取ったあと

横浜スタジアム座席表や情報を調べられるサイトです


とりあえず、一番知りたいと思う座席表をお伝えしますね!

まず先に、アリーナ座席表です


以下はナゴヤドームアリーナの座席表なのですが

スタジアムでの座席表は基本的に変わりませんので

参考になると思います

横浜スタジアムアリーナ座席表情報はこちらをクリック


次に、スタンド座席表です

コンサートはもちろん野球のときにも役立つ座席表ですよ

横浜スタジアムスタンド座席表情報はこちらをクリック


横浜スタジアム座席表

横浜スタジアム地図


横浜スタジアム(よこはまスタジアム)は、神奈川県横浜市中区の横浜公園内にある野球場。施設は横浜市が所有し、建設及び管理は株式会社横浜スタジアムが行っている。


1978年3月、老朽化した横浜公園平和野球場(通称「横浜平和球場」)の跡地に竣工。同年より、川崎球場から移転した横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の本拠地となったほか、神奈川大学野球連盟のリーグ戦や、全国高校野球選手権の神奈川大会等、アマチュア野球の会場としても用いられる他に、アメリカンフットボールの会場としてもしばしば利用されている。高校野球夏の大会では、開会式のほか1回戦から使用され、準々決勝以降は保土ヶ谷球場にかわりメインスタジアムとなる(1997年を最後に行われていないが、横浜スタジアムでの横浜−横浜商戦の時のみ、横浜商のスコアボードの校名表記は「Y」となる)。よく使用される通称は「ハマスタ」。また、地元では単に「スタジアム」とも呼ばれる。

どんぶりを傾けたような外観と、横浜のイニシャル“Y”を模した、逆三角形の6基の照明塔が印象的。2003年から新型人工芝「フィールド・ターフ」を、日本の屋外球場では初めて千葉マリンスタジアムと同時に採用した。


■横浜スタジアム球場データ


所在地:神奈川県横浜市中区横浜公園無番地
収容人数:3万人(消防法上の定員は3万730人)
両翼:94m、中堅:118m
外野フェンスの高さ:5m
グラウンド面積:13,000m2
内外野全面人工芝
着工:1977年4月
竣工:1978年3月
設計:創和設計
施工:清水建設・大成建設など11社による共同企業体
総工費:約48億円

■横浜スタジアムの特徴

横浜スタジアム座席表


内野スタンドの前段は可動式。野球場としての使用時にはVの字になってるが、一、三塁側前列を移動させて平行にすることができる。この可動式スタンドや昇降式ピッチャーズマウンドは、いずれもプロ野球以外の興行に使用する事を前提に設置された。このため、横浜スタジアムは日本で初めて設計段階から多目的スタジアムとして造られた建築物といってよく、その後のドーム球場を含めたプロ用野球場の設計に与えた影響は少なくない。

横浜スタジアム建設前の横浜市内には大型の競技場やコンサートホールなどがなく、スポーツや興行の分野では魅力の薄い街であったが、スタジアムの完成がこれらの分野の発展にも大いに寄与した。長年にわたり横浜国際女子駅伝の発着会場となった(現在の発着場所は横浜赤レンガ倉庫)ほか、Jリーグ草創期にはグラウンドに天然芝のマットを敷いてプレシーズンマッチを行ったこともある。

また、コンサート会場としても数多く利用され、矢沢永吉、長渕剛、浜田省吾、氷室京介、THE ALFEE、LUNA SEA、SMAP、おニャン子クラブ、佐野元春、サザンオールスターズ、TUBE、KinKi Kidsなどの国内アーティストの他、マイケル・ジャクソン、マドンナ、プリンス、スティーヴィー・ワンダー、ボン・ジョヴィ、サンタナ、カルチャー・クラブ、スタイル・カウンシルなどの海外のスーパースターが過去に大規模コンサートを行なってきた。 しかし屋根がない横浜スタジアムは、天候によってイベント開催の可否が左右されやすく近隣への騒音問題もあり、また3万人収容という施設に応じた集客が難しいことから、横浜アリーナや横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)が完成した1990年代以降、野球以外でスタンドが満員になるような大きなイベントにはあまり使用されなくなっている。


建物の立体的な外観は、他の野球場に見られるような垂直的なそれではなく、スタンドの上辺が広く下辺が狭い逆円錐形をしている。これは都市公園法施行令第6条1項1号で定められている、都市公園内運動施設の建ぺい率規制によるもので、スタンドの下辺をもって建ぺい率を計算するためのいわば苦肉の策である。兎にも角にも面積上の問題をクリアするためにかなり無理のある設計となっており、そのしわ寄せの例を挙げれば

両翼ポール際付近はスタンドのどの位置からも死角になりやすく、例えば一塁側内野席やライト側外野席に座ると、ライト線に打球が行った場合フェアかファウルかが判りづらい。またフェアであっても外野手の打球処理が見えない。
外野スタンドは傾斜が急なのに加えてスコアボードがほとんど見えない。(バックネット上段に一応サブスコアボードは存在するが、これに表示されるのは得点経過とSBOカウントだけであり、打順表、球速表示、動画スクリーン等は見ることが出来ない)
内外野とも前後の座席間隔が狭いため試合中の離席が困難。
コンコースが狭いため売店やトイレが少なく、試合終了時に通路やゲートがとても混雑する。また、スタジアムが全席禁煙化されてからは、唯一の喫煙場所としてコンコース中が喫煙者でごった返している。
スコアボードが左右の外野スタンドを寸断しているため、ライト側観客席からレフト側観客席への移動が不可。
等々、観客の立場から見て不都合な点も多く、必ずしも快適な球場とはいえない。また、近年に建設されたいわゆる「国際規格」の野球場に比べ、収容観客数の少なさやグラウンド面積の狭さが指摘されて久しいが、法規上の限界(建ぺい率10%以下でなくてはならない)の中で設計されていることから、スタンドの増築を伴う観客席増設や、スタンドの構造変更を伴うグラウンド面積の拡張なども、法令の改正がなされない限り事実上不可能であるといわれている。


しかしその一方で、

ファウルゾーンが狭く内野スタンドのネットも撤去された事から、観客とプレーする選手との距離が近く、臨場感が大きい。また試合の前後に、内野スタンドから直に選手と握手したりサインを求めたりする事が出来る(ただしビジターチームの選手は横浜ファンに配慮してあまりスタンドに近づかず、内野席からのサインの要求にも応じない傾向にある)。
鉄道路線が三つも通り(横浜市営地下鉄・みなとみらい線・JR根岸線)、いずれも球場のすぐ近くに駅があるため、都心や横浜市内からのアクセスがよい。
球場周辺に横浜中華街や山下公園など、試合の前後に立ち寄れるような観光スポットが多くある。
球場周辺にナイター終了後も営業している飲食店が多くある。
など、他球場と比較して有利な点もある。

また、これも設計限界によるものだが、ダッグアウト裏やグラウンド内に場所が確保できなかったため、ブルペンは外野スタンドの下に存在する。従って、横浜スタジアムの外野フェンスは高さがドーム球場並みに5mもあり、バウンドした打球によるエンタイトルツーベースの成立や、フェンスによじ登ってのフライ捕球はまず不可能である。ちなみに、ブルペンは目隠し用のテントと侵入防止用の鉄柵を隔てただけで横浜公園に面しているので、球場外からリリーフ投手の掛け声やブルペン捕手の捕球音を聞く事が出来る。

ダッグアウトとブルペンの間は連絡路がなく隔絶されているため、プロ・アマ問わずリリーフ投手は試合前からブルペンで待機するか、試合中の攻守交替時にグラウンドを歩いてブルペンに向かわなければならない。また、ブルペンからマウンドまでが遠いので、プロの試合における投手交代時は通常、リリーフカーを使用する。球場誕生時から数回の世代交代を経て、現在のリリーフカーはトヨタ自動車のスポーツカー・MR-Sを改造したものを使用している。プロ本拠地球場の中で市販車ベースのリリーフカーを使用しているのは横浜スタジアムだけであったが、2006年シーズン途中より千葉マリンスタジアムでもボルボの改造車が使用される様になった。

近年は横浜スタジアムに替わる新球場建設の動きも見られた。1990年代の初めには近郊の新鶴見操車場跡に新球場を建設することを目指し入札手続の準備を進めたが、入札に参加しなかったためそれが頓挫したこともあったといわれている。また、その後の1990年代末にベイスターズが優勝争いをすると、ファンから横浜スタジアムの収容観客数の少なさや施設の狭さに対する不満が続出した。これに乗じた高秀秀信横浜市長(当時)は、みなとみらい21地区に新球場(多目的ドームを想定)建設を提案し、横浜商工会議所等の地元経済団体も呼応する動きが見られた(高秀は1998年の市長選で、ベイスターズの優勝を条件にドーム球場建設を公約している)。しかし当初から、大阪ドーム等の経営失敗例や横浜アリーナなどの既存施設と使用目的が一部競合することなどから、多くの横浜市民が多目的ドームの採算性に疑問を持っていた事に加え、2000年以降はベイスターズの成績がふたたび低迷し観客数も減少していったほか、2002年の高秀退陣以降、横浜市が不要不急な公共事業を縮小する政策に転換したこともあり、新球場構想は立ち消えとなった。その後、高秀構想によって新球場建設予定地と目されていた西区高島1丁目の広大な空き地は日産自動車によって買収され、同社の新本社ビルならびに横浜F・マリノスの練習場建設用地となった。

阪神タイガース名物「ジェット風船」は、横浜市の「ポイ捨て禁止条例」抵触と試合進行妨害、近隣を走る根岸線への影響を理由に禁止している。また、東京ヤクルトスワローズ名物の「ビニール傘応援」も一時期禁止されていた。

2006年からは、名球会入りしたホエールズ、ベイスターズの選手の名前を入れたボール模様のプレートをライト外野スタンドに設置し、その功績を称えている。
スコアボードから近い順に

「2000HITS 松原誠」(最終記録2095安打)
「200WINS 平松政次」(最終記録201勝)
「2000HITS 駒田徳広」(最終記録2006安打)
「250SAVES 佐々木主浩」(最終記録381セーブ(日本252セーブ、アメリカ129セーブ))
「2000HITS 石井琢朗」


■横浜スタジアム球場の歴史


横浜公園平和野球場
現在の横浜スタジアムになる前、ここは「横浜公園平和野球場(通称:横浜平和球場)」があった。前身は1874年に完成した「彼我公園(ひがこうえん)」。在日外国人のクリケットグラウンドとして整備され、1896年には地元外国人チームと旧制第一高校との国際野球試合が開催された。

その後、1929年に関東大震災復興記念事業の一環としてこれを硬式野球場「横浜公園球場」として整備、1934年にはルー・ゲーリッグやベーブ・ルースらを擁するアメリカ大リーグ選抜軍と、沢村栄治や苅田久徳らを擁する日本代表チームとの間で親善試合も開かれた。しかし第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦により、1945年9月に球場はアメリカ軍に接収。名前もここでゲーリッグがプレーした事にちなんで「ルー・ゲーリッグ・スタジアム」と改称される。そして1948年には日本初のプロ野球ナイトゲームを開催した(下記参照)。1952年にアメリカ軍の接収解除に伴い横浜市に返還され、1955年に「横浜公園平和野球場」と再度改称する。


■横浜スタジアム日本初のナイトゲーム


1948年8月17日、当時の「ルー・ゲーリッグ・スタジアム」で、日本初の職業野球公式戦のナイトゲーム開催が実施された。対戦カードは読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ戦で、3-2で中日が記念すべき日本のナイトゲーム初勝利を飾った。ちなみに試合開始は20時過ぎだった。この8月17日は現在でも「プロ野球ナイター記念日」とされている。


■横浜スタジアム建設

横浜公園内には解体前の県立武道館・米軍チャペルセンター・野外音楽堂がまだ存在している(1977年撮影) 国土画像情報(カラー空中写真)(国土交通省)を元に作成。返還された平和球場はプロ野球の試合こそほとんど行われなかったものの、高校野球神奈川大会や社会人野球などアマチュア野球の会場として大いに活躍した。しかし、築40年を超えて建物の老朽化は深刻になり、1970年には、躯体のコンクリートが酸化して観客の重量を支えきれなくなったという理由から、スタンドの上半分が閉鎖された。これによってもともと15000人程度であった観客収容数が半減しアマチュア野球の大会にも使用出来なくなり、野球好きの市民の間に建て替えとプロ球団誘致を求める署名活動などが行われるようになった。

一方この頃の大洋球団は、巨人戦以外は全く集客の伸びない川崎球場に限界を感じており、同じ県内でより知名度が高く人口も多い横浜への本拠地移転を構想していたが、崩壊の危険性があり一万人の収容すら出来なくなった平和球場では、ドル箱の巨人戦を含むセ・リーグの公式戦や、万が一優勝した時の日本シリーズ開催を行える筈もなかった。そこで、横浜市との間に「横浜に新球場が完成した折には、大洋は川崎から移転する」といった趣旨の覚書を取り交わしている。

時の横浜市長飛鳥田一雄は、大洋の移転意思もあって新球場建設にはやぶさかでなかったが、日本経済は折からの第1次オイルショックにより停滞。当然横浜市の財政もよいわけがなく、市が単独で建設の予算を捻出することなど到底不可能な状況だった。また、当時はみなとみらい21地区の造成も構想段階であった上、市内にはまだ随所に返還の目処が立たない米軍接収地が点在していたため、横浜公園以外で同等の交通アクセスを確保できるような土地はなかった。従って、新球場の建設イコール平和球場の建て替え、という図式へ必然的に流れていったが、平和球場を解体してプロ野球も開催可能な規模の球場を建設するには、公園内建築物の建ぺい率制限や、所管官庁である建設省との折衝、さらに神奈川県立武道館等、新球場建設によって移転を迫られる横浜公園内施設の代替地問題など、資金面以外にもさまざまなハードルがあった。中でも、横浜公園内の米軍横浜チャペルセンターの立ち退きに際しては、日本政府のほかに米軍当局との調整も必要であった。しかし、当時大洋ホエールズの株を多数保有していた国土計画(現プリンスホテル)総帥・堤義明が3億円の融資を表明すると、建て替えの機運は急加速をはじめる。やがて飛鳥田市長らの奔走により資金以外の問題は順次クリアされ、堤による支援のほか市民からの株主も募り、1977年ついに第3セクター法人の運営会社「株式会社横浜スタジアム」が設立された。

そして1977年4月、新球場の建設が開始された。通常、この規模の建築物であれば2年前後の工期がかかるが、横浜スタジアムは翌年のプロ野球開幕に間に合わせるため、平和球場の解体を含めて1年程度の短工期が組まれることとなる。このため着工当初は7社程度のゼネコンによる共同企業体であったが、工期の関係上最終的には11社に及ぶゼネコンが結集し、超突貫体制で建築作業が行われた。法律上、公有地に企業が運営する施設を設置することができないため、建設は横浜スタジアム社が行った上で、一旦横浜市に施設を無償譲渡する形を執り、運営を横浜スタジアム社が行うという形が取られた。

幸い工事は無事に工期どおり終了し、1978年3月、晴れて横浜スタジアムは完成。同年4月4日に?落としとなる横浜大洋ホエールズ(移転により改称)対読売ジャイアンツの公式第1回戦が行われ、前年新人王の斉藤明雄の力投により地元大洋が4-1で勝利して花を添えた。この試合の始球式は、前市長として建設に尽力した飛鳥田一雄(この時の地位は日本社会党委員長)が行っている。

横浜スタジアムの着工が正式に決定した頃、ロッテオリオンズも大洋と共用で本拠地としたいと表明を行った。この時のロッテの本拠地は宮城県仙台市の宮城球場であったが、東北新幹線は未開通、航空機も今ほど気軽に利用できる交通手段ではなかった時代であり、6球団中4球団が西日本に本拠を置いていた当時のパ・リーグで、カード毎の長距離移動はロッテ球団・相手球団ともに選手の肉体面や経費の面で負担が非常に大きかった。それゆえ、首都圏に新球場が出来るのはロッテ球団にとって願ってもない好都合な出来事であった。しかし、横浜スタジアムの単独使用を既定路線として進めていた大洋球団は、共用によって日程上の制約を受ける事を嫌いロッテの申し入れを拒否した。このとき大洋は既に川崎市に対し正式な移転通告をしていたため、プロ球団がもたらす経済効果を得たい横浜市と、それを喪失したくない川崎市、全国2位の人口を誇る大都市横浜で集客を伸ばしたい大洋球団とロッテ球団、以上4者の思惑が交錯し、マスコミ等世間も注目する中(一部では両球団の合併報道まで飛び出した)で竣工間近まで調整が続いた。だが、横浜スタジアムの使用優先順位については、もともと神奈川県を保護地域としていた大洋に一日の長があり、また当時のロッテの選手や首脳陣が人工芝球場を好んでいなかったともいわれ、結局当初の予定通り横浜スタジアムは大洋の専用となり、ロッテは川崎球場に落ち着くこととなった。なお、これ以降川崎市と大洋球団は半ば絶縁状態となり、大洋(横浜)球団の川崎球場での公式戦開催は、移転した1978年から同球場のスタンドが取り壊される2000年まで、ついに一試合も行われることはなかった(1993年に一度だけ日程が組まれたが、雨天中止となった)。


■横浜スタジアム建設後の主な改修


横浜スタジアムは、完成後現在に至るまでの間に数回の改装を受けている。

1978年 シーズン途中、ダッグアウト前にフェンスを設置
1990年 スコアボード大規模改修。選手名・得点表示部は、選手名・回数ごとに分割して表示部が設けられていたが、全面連結表示になり、光源も白熱球からLED(発光ダイオード)となった。また、映像表示部は動画も橙単色で写していたが、フルカラー式のものに改められた
1998年 内野人工芝張替え
1999年 スコアボード改修(東芝ライテック製:スーパーカラービジョン)。選手名・得点表示部分を橙単色LEDから3色(赤・緑・橙)LEDに変更。映像表示部も解像度の高い画面に交換。外野席をベンチシートから背もたれ付コンパートメントシートに換装。全席禁煙化。また、開場以来のメインスポンサーであった日産自動車が経営不振により撤退、トヨタ自動車が日産に替わってその座に着き、スコアボード上端の広告が日産の「LIFE TOGETHER」からトヨタの「クルマが未来になっていく。」に改められた(現在は「Drive Your Dreams.」)
2000年 外野人工芝張替え。リリーフカーも開場以来の日産車(最後はS-Cargoの改造車)からトヨタMR-Sの改造車に変更
200x年 球場内ミニFM放送・「FMハマスタ」用の放送ブースを、バックネット裏最上段に設置
2003年 内外野人工芝を、天然芝球場風の着色が施された「フィールド・ターフ」に張替え
2005年 内野スタンドから、バックネット以外のフェンスを撤去。また、数年前から使用されなくなったライトスタンドのエレクトーンブースを撤去したほか、レストランやトイレ等、コンコース内の施設を改修
2006年 外野フェンスラバークッションの高さをフェンス上端までかさ上げし、クッション厚も変更。ブルペンのマウンド数を一塁側・三塁側とも2箇所から3箇所へ増設。バックネットに広告表示用のLED画面(ファンケル化粧品協賛の広告を掲示)を設置
※スコアボードはカラーボードが採用されるまでは1回-延長10回までのスコアを表示し、11回からは改めて表示をクリアして1回のところから表示し直す方式だった。カラー化されて以後1998年までは延長戦の場合はそれが行われるイニング分左にスライドしていく形(例えば延長10回が行われる場合、1回のスコアが消去され2回-10回のスコアが表示される)だった。1999年の改修で再び10回まで表示され、11回以後は改めて表示をクリアし、対戦チームの横に10回までのスコア、そしてその右隣に11回-18回のスコアを表示できるようにしている。


■横浜スタジアムへのアクセス


JR根岸線・横浜市営地下鉄 関内駅
横浜高速鉄道みなとみらい線 日本大通り駅
横浜市営バス 横浜スタジアム前・市庁前・内駅北口・尾上町・羽衣町停留所

         

横浜スタジアム座席表です

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