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横浜スタジアム建設

横浜公園内には解体前の県立武道館・米軍チャペルセンター・野外音楽堂がまだ存在している(1977年撮影) 国土画像情報(カラー空中写真)(国土交通省)を元に作成。返還された平和球場はプロ野球の試合こそほとんど行われなかったものの、高校野球神奈川大会や社会人野球などアマチュア野球の会場として大いに活躍した。しかし、築40年を超えて建物の老朽化は深刻になり、1970年には、躯体のコンクリートが酸化して観客の重量を支えきれなくなったという理由から、スタンドの上半分が閉鎖された。これによってもともと15000人程度であった観客収容数が半減しアマチュア野球の大会にも使用出来なくなり、野球好きの市民の間に建て替えとプロ球団誘致を求める署名活動などが行われるようになった。

一方この頃の大洋球団は、巨人戦以外は全く集客の伸びない川崎球場に限界を感じており、同じ県内でより知名度が高く人口も多い横浜への本拠地移転を構想していたが、崩壊の危険性があり一万人の収容すら出来なくなった平和球場では、ドル箱の巨人戦を含むセ・リーグの公式戦や、万が一優勝した時の日本シリーズ開催を行える筈もなかった。そこで、横浜市との間に「横浜に新球場が完成した折には、大洋は川崎から移転する」といった趣旨の覚書を取り交わしている。

時の横浜市長飛鳥田一雄は、大洋の移転意思もあって新球場建設にはやぶさかでなかったが、日本経済は折からの第1次オイルショックにより停滞。当然横浜市の財政もよいわけがなく、市が単独で建設の予算を捻出することなど到底不可能な状況だった。また、当時はみなとみらい21地区の造成も構想段階であった上、市内にはまだ随所に返還の目処が立たない米軍接収地が点在していたため、横浜公園以外で同等の交通アクセスを確保できるような土地はなかった。従って、新球場の建設イコール平和球場の建て替え、という図式へ必然的に流れていったが、平和球場を解体してプロ野球も開催可能な規模の球場を建設するには、公園内建築物の建ぺい率制限や、所管官庁である建設省との折衝、さらに神奈川県立武道館等、新球場建設によって移転を迫られる横浜公園内施設の代替地問題など、資金面以外にもさまざまなハードルがあった。中でも、横浜公園内の米軍横浜チャペルセンターの立ち退きに際しては、日本政府のほかに米軍当局との調整も必要であった。しかし、当時大洋ホエールズの株を多数保有していた国土計画(現プリンスホテル)総帥・堤義明が3億円の融資を表明すると、建て替えの機運は急加速をはじめる。やがて飛鳥田市長らの奔走により資金以外の問題は順次クリアされ、堤による支援のほか市民からの株主も募り、1977年ついに第3セクター法人の運営会社「株式会社横浜スタジアム」が設立された。

そして1977年4月、新球場の建設が開始された。通常、この規模の建築物であれば2年前後の工期がかかるが、横浜スタジアムは翌年のプロ野球開幕に間に合わせるため、平和球場の解体を含めて1年程度の短工期が組まれることとなる。このため着工当初は7社程度のゼネコンによる共同企業体であったが、工期の関係上最終的には11社に及ぶゼネコンが結集し、超突貫体制で建築作業が行われた。法律上、公有地に企業が運営する施設を設置することができないため、建設は横浜スタジアム社が行った上で、一旦横浜市に施設を無償譲渡する形を執り、運営を横浜スタジアム社が行うという形が取られた。

幸い工事は無事に工期どおり終了し、1978年3月、晴れて横浜スタジアムは完成。同年4月4日に?落としとなる横浜大洋ホエールズ(移転により改称)対読売ジャイアンツの公式第1回戦が行われ、前年新人王の斉藤明雄の力投により地元大洋が4-1で勝利して花を添えた。この試合の始球式は、前市長として建設に尽力した飛鳥田一雄(この時の地位は日本社会党委員長)が行っている。

横浜スタジアムの着工が正式に決定した頃、ロッテオリオンズも大洋と共用で本拠地としたいと表明を行った。この時のロッテの本拠地は宮城県仙台市の宮城球場であったが、東北新幹線は未開通、航空機も今ほど気軽に利用できる交通手段ではなかった時代であり、6球団中4球団が西日本に本拠を置いていた当時のパ・リーグで、カード毎の長距離移動はロッテ球団・相手球団ともに選手の肉体面や経費の面で負担が非常に大きかった。それゆえ、首都圏に新球場が出来るのはロッテ球団にとって願ってもない好都合な出来事であった。しかし、横浜スタジアムの単独使用を既定路線として進めていた大洋球団は、共用によって日程上の制約を受ける事を嫌いロッテの申し入れを拒否した。このとき大洋は既に川崎市に対し正式な移転通告をしていたため、プロ球団がもたらす経済効果を得たい横浜市と、それを喪失したくない川崎市、全国2位の人口を誇る大都市横浜で集客を伸ばしたい大洋球団とロッテ球団、以上4者の思惑が交錯し、マスコミ等世間も注目する中(一部では両球団の合併報道まで飛び出した)で竣工間近まで調整が続いた。だが、横浜スタジアムの使用優先順位については、もともと神奈川県を保護地域としていた大洋に一日の長があり、また当時のロッテの選手や首脳陣が人工芝球場を好んでいなかったともいわれ、結局当初の予定通り横浜スタジアムは大洋の専用となり、ロッテは川崎球場に落ち着くこととなった。なお、これ以降川崎市と大洋球団は半ば絶縁状態となり、大洋(横浜)球団の川崎球場での公式戦開催は、移転した1978年から同球場のスタンドが取り壊される2000年まで、ついに一試合も行われることはなかった(1993年に一度だけ日程が組まれたが、雨天中止となった)。

         

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